
「その違いについても楽しんでいただけたら、この作品の世界が重層的に楽しめるのではないかと思います」──アニメ『違国日記』構成・脚本:喜安浩平さんインタビュー【連載第3回】
「答えの出るものではないような気がしますね(笑)」
──喜安さんが槙生と朝に初めて出会った時、どのような印象を抱かれましたか?
喜安:最初の方のお話と読み進めていった先のお話では、やはり少しずつ二人の印象が変わってきます。それはきっと、キャラクターそのものが変わっていったのではなく、ヤマシタさんと作品の関係性といいますか、ヤマシタさんの書きたいものがどんどん見つかっていったのではないかなと感じました。
(ヤマシタ先生の)キャラクターへの解像度がどんどん高くなって、鮮明になっていく。これがまず印象的でした。
後半に向けて、より二人の姿が多面体になっていきますが、多面体になっても、むしろだからこそどんどんわかりやすくなっていくんですよね。そこが非常に面白いなと思います。
あと、一応僕も作り手の端くれですし、どちらかというと槙生さん寄りの考えをしてしまうかなと。朝との接し方などについても、槙生さんの苦悩の方がわかりやすいなと思ったりしました。
──アニメを見ていると、双方それぞれの目線を強く感じる印象があって。
喜安:これはそれほど強調してないのですが、話数ごとに代わりばんこで、少しだけ視点をどちらか(槙生か朝か)に寄せているんです。
例えば一話は朝に寄っています。槙生は朝に対するメンターのようです。対して二話は「私は家に帰る」で締めようと決めていたので槙生さんの視点で物事が進む。友人たちとの対話でメンターのはずの槙生の方が揺れる。続く三話では、前半槙生で、そこから朝の心情へ移り、というように心がけました。
どちらかが主人公というわけではなく、常に二人に焦点が当てられて交互に成長していくような構成になるといいなと思っていました。
──特徴的な作り方ですね。
喜安:そうですね、よくやることではないとは思います。でも、どちらかだけを丁寧に描いて「いつの間にかもう一人も成長していました」とはいかないタイプの作品なので、どちらの視点にも自然と移り変われるように組ませていただきました。
『違国日記』は槙生と朝の二人が語り部で、互いが互いを見ながら成長していくお話ですから。
──二人の関係性は一言では言い表せないものだと思いますが、我々はどのように彼女たちを想像したらよいのでしょうか。
喜安:おっしゃる通りで、二人はどこまで行っても親子にはならないし、姉妹とも言えないんですよね。もう少し時が経てば年の離れた友人にはなるのかもしれませんが、友人にしては随分、踏み込めないであろうところまで踏み込んでいて。だからこそドラマティックなんだと思います。
二人の関係性は「こうだよね」と一言で言い表せない。だから『違国日記』という物語が必要なんだと思うんです。「こういう人がいました」で片付く話なら物語にする必要はない。だから、何とも言い難い二人の関係性や二人の立ち位置の変化、心の動きのようなものに、少し寄り添っていただくというのが、一番楽しい楽しみ方なんじゃないかなと思います。これはあまり、答えの出るものではないような気がしますね(笑)。
──「叔母」と「姪」という続柄も、距離感が絶妙で。
喜安:ともすれば親子関係より色々なことを言えるし、素敵な関係だなとは思いますが、それをこうやって作品として描かれるとまた違った見え方ができるなと。二人の背景には姉妹の確執や父との関係の空虚さが張り巡らされていて、それらが二人の言動をちょっとずつ左右させてしまう。そんなところも原作の魅力だと思います。
また、外から見ているだけの人間からすると槙生さんは、無愛想で厳しいことを言う人に見えてしまうけれど、彼女のバックボーンを知るにつれて苦しさや生きづらさが見えてきます。読者、視聴者である自分たちの中にもあるだろう背景と重なる瞬間もあったりして。
その瞬間瞬間で、自分自身のことも含む、様々なことに気づける原作です。だから魅力的なんだと思います。
──はじめて槙生や朝らの声を聞いたときの感想をお聞かせください。
喜安:一話の冒頭で森さんが歌ってるじゃないですか。あの歌、本当に上手くて! なんだか面白くなっちゃって、そのあとオープニングが流れましたが、森さんの歌唱がほんとに楽曲どおりで、2回流れた……って笑っちゃいましたね。
原作で「歌が上手い」と言葉で表現できるのは漫画特有のものですが、アニメだと、本当に上手じゃないと「歌が上手い」にならないですから、ハードルの高い役だと思うんです。それを見事に引き受けて表現してくださって、素晴らしいなと思いました。
槙生と朝の二人の……間合いといいますか、呼吸といいますか。ある種それがこの作品の肝だと思っています。彼女たちの会話は必ずしも心地良いときばかりではなくて、ヒリヒリするような時やドキドキするような時もあります。でも、そんな彼女たちの会話そのものに惹きつけられる魅力がなければ、退屈な作品になってしまうと思うんです。
沢城さんと森さんが、部屋の中で起こっているやり取りを大事に拾い上げてくださっていることが嬉しいなと思いましたし、おかげで画面をずっと見続けられる作品だなと思いました。
──漫画で描かれる間や会話劇をアニメに構成する上で、大変だったことを教えてください。
喜安:「話の中のどこをクライマックスに持ってくるか」から考え始めたのですが、極端な話、ずっと二人がお部屋の中で会話していても“持つ”んですよね。ただやはり、思いがけずこのアニメのこの場面を見かける人がいるかもしれないと想定した時に、その瞬間で足を止めてもらうには……、というようなことも考えないといけない。原作の良さを棄損しない範囲で、でも、アニメから見始めた方々の食指を動かすには……。繊細な作業だと思います。
手を加えすぎると「そんなこと、言われなくてもわかってるよ」というような提示になってしまうし、そこは難しかったですね。特に漫画から映像にするのが一番、ある意味厄介かもしれません。
──というと?
喜安:一度、ビジュアルが完成していますからね。それに、視覚的にすでに仕上がっているものを、ただ繋げばいいというわけでもない。
小説などは、みなさんが想像したものとこちらが提案したものが仮に違っていたとしても、お互いの想像で補完し合えるかもしれません。でも漫画は絵とフキダシによってイメージができあがっているものを脱構築して、もう一度原作の良さに戻すという工程が発生します。よりデリケートだと思うんです。
特にテレビ放送だと漫画のように読み返すこともできない。先ほども言ったように、その瞬間を見てもらわなければいけないし、見終わったあとには「来週も見よう」という気持ちになっていただかなければいけない。時間が流れていく中で、常に何か惹き付ける仕掛けをしていく必要があります。
時間経過の考え方が漫画とアニメではまた少し違うので、主にセリフの語順などに手を加え、肝心なところを聞きやすい場所に持ってくるなどの工夫をしています。
──脚本・構成を担当する中で感じるやりがいや、喜安さんがこのお仕事をする理由について教えてください。
喜安:ある企画に参加させていただくと、そこで物を作っている方々にお会いできるし、原作がある企画であれば、原作を作られた方とやり取りができる。物を作っている人たちとお話しをしたり意見を聞かせていただけたり、みんなと会話ができることが、おそらく僕がこの役割を引き受けている理由だと思います。先ほども言ったとおり、本当に謙遜でも何でもなく、書くことが得意じゃないものですから。
自分個人の仕事の一環で「雑談の会」っていうのをやってるんですよ。本当に雑談しかしない集まりなのですが……10割、作業の時間があったとしたら、書く時間はそのうちの1割か2割にしたいんです。で、残りの8割は、お話しをしたり、何かを知ったり、何かに気づいたりする時間にしたいんですね。
そうやってたくさん貯めたものを元に、2割の時間を使って書く。これが理想ですし、その時間が楽しみだから書いています。
──知識欲、吸収欲といいますか。
喜安:「この人はこういう風にその本を読んだんだ」とか「こんな演出を考えてたんだ」とか。聞いていると面白いんですよね。その会話をするための、やり取りの材料としてシナリオを書いているのかもしれません。
──そうして脚本を書いていく中で、例えばアニメとドラマなどでは作り方は違ってくるものなのでしょうか。
喜安:違うと思います。違いますし、もっと言えば深夜ドラマと「日曜劇場」でも違います。それはアニメもそうで、ジャンルでも枠ごとでも変わってくるものだと思っています。
──そこで柔軟に、自分から出していくものを変えないといけない。そのためには色々なインプットが必要だ、と。
喜安:そういうことです。色々な場所で遊びたいと思ったら、色々な人とやり取りをして、その場所の遊び方を理解しないといけない。色々な人のお話を聞いて、頂戴したものを次の現場で、次の現場でと役に立たせていく感覚ですね。















































