劇場版 『RE:cycle of the PENGUINDRUM』後編レビュー|TVアニメ『輪るピングドラム』を知らない私が「愛し愛されること」の大切さを学びました
2022年7月22日(金)より公開中の劇場版 『RE:cycle of the PENGUINDRUM』後編「僕は君を愛してる」。10周年を記念し、2011年より放送されていたTVアニメ『輪るピングドラム(以下、『ピングドラム』)』に新規カットを加えて、劇場版は再編集されています。
前編を機に『ピングドラム』を好きになり、前回レビューを書いた杉村美奈です。幾原監督の独特で美しい世界観に惹かれ、後編公開をとても心待ちにしていました。
前編にて闇を抱えるキャラクターたちに魅了されたのですが、後編ではキャラクターの暗い人生が明らかに……それでも選ばれし「何者かになれる」ことを望んだ結果に、泣きそうになりました。
本記事では、鍵となる「存在証明」と「愛」に焦点を当てて、後編のレビューをします。また、映画を見終わった後、もっと『ピングドラム』を知りたくてTVアニメも一挙見しました。その感想も合わせてお伝えします。
目次
- 「存在証明」とは誰かに愛されることである
- 愛し愛されることこそ「何者かになれる」
- 贖罪と、運命を乗り換える代償に涙
- 一挙見したTVアニメ『輪るピングドラム』も好き!
- 『ピングドラム』とは分け合える愛
- 『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM』作品情報
「存在証明」とは誰かに愛されることである
まず、本作でかなりショックを受けたのが子どもブロイラーです。『ピングドラム』の世界では物理的に回収されて、社会から消され、存在が透明になる子どもたちがいます。まさか、陽毬も多蕗も過去に子どもブロイラーへと送られていたとは衝撃でした。
陽毬は晶馬から、多蕗は桃果から必要とされ、透明な存在から愛される存在へと変わりました。そこから『ピングドラム』で伝えたかったことは、「愛することの大切さ」なのではないかと思います。
つまり、人は誰しも生まれつき何者にもなれていません。しかし、誰かに愛されることによって存在価値が生まれ、個人の「存在証明」になるのだと思いました。
愛し愛されることこそ「何者かになれる」
桃果が繰り返し言う『きっと何者かになれるお前たちに告げる』には、どんな意味があるのかに注目して映画を見ました。そして私が感じた答えは、愛して「存在証明」をしてくれた人へ愛を返すことができれば、愛した人の「何者かになれる」のではないかということです。
想い合い、存在を肯定できるからこそ、お互いにとっての「何者かになれる」のだと思います。陽毬にとっての晶馬や多蕗にとっての桃果のように。桃果は初めから人を愛することを知っていたので、ゆりや多蕗にとって特別な存在でした。自らの犠牲を顧みずに、他者を愛することの素晴らしさを桃果から学びました。
贖罪と、運命を乗り換える代償に涙
想像もしていない運命の乗り換え方で、「運命の果実を一緒に食べよう」と苹果が言った瞬間は全身が震えました。
運命を乗り換える呪文を合図に、冠葉は陽毬を命に変えて守り、晶馬は苹果の乗り換えの代償を引き受けます。体を無くし愛を与え、生きる光を手に入れた冠葉と晶馬。運命を乗り換えた後、兄が存在しない世界にて陽毬が手紙を見て涙を溢す場面で、私もつられて泣いてしまいました。
きっと自分だけではどうにも動かない運命はあると思います。その運命があらかじめ決められているものだとしても、誰かの愛によって見える世界が良い方へ変わることがあるのではないでしょうか。『ピングドラム』は愛することの大切さと人を見捨てない優しさを教えてくれました。