
なぜ“貝汁”なのか?『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』で最も謎めいたキャラクター・島二郎の正体を考える【考察・レビュー】
可愛らしいキャラクターたちが織りなす日常を描きながら、時折見え隠れするダークな描写でファンを魅了し続ける『ちいかわ』(原作:ナガノ先生)。その劇場版となる『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、これまでのエピソードの中でもとりわけ特異な手触りを持つ作品に仕上がっています。
中でも、森の奥で飲食店を経営する男「島二郎」は強烈なインパクトを残しました。「もう島二郎ひとりでいいんじゃないか…?」と思えるほどの頼れる存在ですが、そもそも彼は何者なのでしょうか?
本稿では彼が提供する看板メニューのひとつ“貝汁”を手がかりに、彼の正体と物語上の役割を考察します。
※幾つかのネタバレを含みます。未見の方はご注意ください
与える者と受け取る者
作中の島二郎は見返りを求めず、「他者に与える行動」だけをするキャラクターです。これはちいかわが彼の店を発見し、カツカレーと貝汁を振る舞われる場面から一貫しています。そういう意味で、セイレーンがもたらす超自然的な恩恵を“受け取る”だけの島民たちとは、対比的な存在と言えるでしょう。
こういった他者のために働く精神性は、ラーメン店「郎」で働くシーサーとも共鳴しており、映画においては、このふたりがいわゆる「食事係」を一手に担っています。また、島二郎とシーサーにはもうひとつの共通点があります。それは自分の腕一本で自立しているということです。
島民たちが事前に島二郎の存在を知っていたなら、わざわざ外界に「討伐依頼」を出さず、島内だけで秘密裏に処理しようとしたはず。それがなされなかったのは、島二郎が島のコミュニティから適度な距離を置き、自分の力だけで生きていたことを物語っています。
貝汁は島の恵み?
島二郎が提供する料理のひとつ「カツカレー」は、物語の終盤で「キャロライナリーパーによるセイレーンへの反撃」という伏線として機能していました。では、もう一つの看板メニューである「貝汁」には、どのような意味が込められているのでしょうか。
作中では、島二郎が自ら海に潜り、自らの手で貝を採取していることが繰り返し明示されます。そこから考えていくと、貝とはセイレーンがもたらした恩恵に依存しない、「島本来の恵み」の象徴と言えるかもしれません。島民たちとは距離を置きつつ、島の自然そのものと向き合う。貝汁とは「人魚の力で楽園となった島の“構造”から逸脱した料理」という見方ができそうです。セイレーンの攻撃によって疲弊したちいかわの回復に繋がった展開とも、違和感なく繋がります。
島二郎=“真の島民”
強大な力に依存しながら生きてきた島民たち。彼らと島二郎を対比したとき、浮かび上がってくるのは「どちらが真の意味で島の住人なのか」という問いです。
見た目こそ他の島民とは一線を画す島二郎ですが、自らの手で食材を集め、調理して提供する彼こそが、島のポテンシャルの中で生きる「真の島民」なのではないでしょうか。大きな力や既存の価値観に寄りかかる大衆から離れ、何にも依存せずに生きる姿勢は、必然的に“孤独”も伴います。具体的には、折角おいしい料理を作ったのに、お客さんがひとりも来ないかもしれない。しかし、だからこそ島二郎は強い。何にも寄りかからず自立しているからこそ、誰かが窮地に陥ったときには無条件で手を差し伸べることができるのです。
作中ではセイレーンや人魚という強大な存在を軸に、島民の身勝手さが描かれます。つまり、あの島は「愚かで身勝手な人々の空間」という分かりやすい記号になってしまう可能性を孕んでいました。でも、あの島には島二郎という超人が確かに存在した。その事実自体が、島自体の尊厳を守る防波堤になっていると考えられます。
おわりに
我々の心に何とも言えない感情を残した『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』。
物語のラストで島の恵みを称える「島のうた」は、カツカレーと貝汁の歌に変わりました。それはセイレーンの恵みを失った島民の嘆きだったのでしょうか。それとも、島二郎の存在を知った島民たちが「自立を目指し始めた」という微かな希望だったのか。
島二郎というキャラクターに注目することで、本作の見方が少し広がるかもしれません。
[文/小川賢人]


























