
『この世界の片隅に』リバイバル上映に寄せて〜片渕須直監督とともに、戦争のこと、語り継ぐこと、すずさんが生きた“片隅”を問い直す【インタビュー】
2025年8月1日(金)より、片渕須直監督・こうの史代先生原作の映画『この世界の片隅に』がリバイバル上映されます。本作は、広島から呉に嫁ぎ、戦火を生き抜いたひとりの女性・北條すずの生活を丁寧に描き出した傑作アニメーション。
アニメイトタイムズでは、リバイバル上映に合わせて、片渕監督にインタビューを行いました。終戦から80年、そしてすずさんが100歳を迎える節目の年に、改めて本作が問いかけるのは、今の私達の生活と地続きで、決して過去にならないもの。
戦争とは何か。生活とは何か。語り継ぐとは何か。そして、すずさんの「無垢さ」をどう引き受けるのか。片渕監督とともに、彼女が生きた“片隅”を、今あらためて問い直します。
すずさんの生活を問い直す
ーー今年は終戦から80年、すずさんが100歳を迎える節目となります。今回のリバイバル上映が決まった際、どんなことが頭に浮かびましたか?
片渕須直監督(以下、片渕):2016年に映画『この世界の片隅に』が公開されて、その後、日本だけではなく、いろんな国で作品を観ていただきました。その初期に、海外のファンの方とお話する機会がありまして、「すずさんが前向きに生きている姿に感動した」という感想がかなりあったんです。でも、それってハリウッド映画的な見方じゃないかなと。「すずさん、そんなに前向きでした?」と。
ーー時代や社会に追われて……という印象です。
片渕:そうですよね。戦争というものに流されるように生きる以外にない時代だった。戦後になってすずさんは新しいものをつかみ取って、なんとか希望や未来を感じさせる終わり方をしてはいますけど。
とはいえ、その未来とは今の僕らの「平凡な日常」につながる時間のことです。彼女が生きたことによって、素晴らしい世界が築けたわけではないのかもしれない。単純に、僕らの現代にいたるまでご飯を毎日食べつづけたというくらいのものかもしれない。でも、むしろそうしたことの意味の大きさを語りたかった。もっとも、そのご飯も最近は供給が危なかったりもしますが……。
ーー(取材時点では)コメを巡る報道が連日行われていますね。
片渕:そういうものをみていると、むしろ希望のある未来に繋がらなくなってしまったような気がしてショックも受けるわけですが。
公開当初に特に耳に入って来たことではあるんですが、こういう作品にまだあまり馴染みがなかった人が拠り所にしたのは「一般的な映画」の文脈だったみたいです。そうした目で見ると、受動的に生活しているすずさんが、あたかも能動的に生きているようにも見えてしまって。エンターティメント映画の文脈に当てはめて『この世界の片隅に』を観ると、すずさんは結構前向きに見えてしまうのかもしれない。
「すずさんの勇気や知恵に感動した」という声もある中で、「彼女にはどこで知恵を振るう機会があったんだろう?」と思わざるを得ないんですよ。すずさんはニコニコ笑って生きているようだけど、どんどん笑えなくなっていく。それがどういうことなのか、しっかり考えるべきではないかなと思います。
もちろん、僕はお客さんに対して「こうやって観てください」と言える立場ではありません。でも、「前向きな主人公が、理想的な結末にたどり着くだけの作品ではないんだよ」と理解して、今回の上映に臨んでいただければ嬉しいです。
ーーすずさんの生活のリアリズムが、観客を感情的にさせてしまうのかもしれません。
片渕:「戦時中は食べ物も、何もかもなかった」と描くと、ともすれば、「それ以前にもずっと豊かさはなかった」と勘違いさせてしまうこともある。そうした中で苦心で切り開く主人公の話だったのかどうか。だからこそ、“戦前の生活の姿”の描写も入れているわけです。カツレツを食べているとか、モガの服を着ているとか。
すずさんが住む国の生活は、戦争を経て、徐々に豊かになっていったのではなく、それ以前にも豊かさはあったんですね。街の風景写真などをみていると、昭和10年くらいと昭和30年くらいのものって見分けがつかないくらい同じなんです。そこに映っている人たちの姿も含めて本当に同じで。戦時中だけぽかっと凹んでいるような印象です。その凹んだ時代にすずさんは育っている。その時代の形にはまって生きているんです。他の登場人物たち、その前の時代を知っている年上の世代は、実は全員文句を言っているんですよね。
ーー劇中では径子さん(黒村径子 CV:尾身美詞)は、モガ(モダンガール)だったという話が出てきます。
片渕:彼女も、お母さん(北條サン CV:新谷真弓)たちも「いつの間にかこんな時代になっちゃった」って思っているみたいですよね。例えば、径子さんにしても「新聞や雑誌に書いてあることを丸ごと信用するようでは……」と、すずさんのことをみているのかもしれない。すずさんは、ご飯が無いからといって、政府広報で見聞した「楠公飯」みたいなものを作っちゃう人でしたから。
ーー結果、全然美味しくないという(笑)。
片渕:今みたいにお米が足りなくなってきた時の誤魔化しですからね。例えば、元々は米だけで10キロあった政府からの配給米を、米9キロちょっとに減らして、その分ぬかで1キロ弱かさ増しして配給する、みたいなことなんです。
そういう誤魔化しの中で、「すずさんはぬかごと楠公飯にして食べたら節約にもなって、栄養もある」と、いわれたとおり信じて作っている。
でも、お母さんはそれを瓶に入れて、ちゃんとぬかを取って、精白してから食べようとしている。その意味を考えられるなら、すずさんのやり方がちゃんと否定されていることがわかります。平和なその前の時代を知っている世代が、戦中派の彼女を否定しているんです。
ーー「そんなことしたってしょうがないよ」と。
片渕:これが真っ当なご飯の食べ方だと思いながら、一升瓶の中の米をついている。
ーー現代の私たちの視点だと、すずさんが知恵を働かせているように見えるけど、実は暗にそれが否定されている。ただの空回りのエピソードではないということですね。
片渕:お母さんの行動がどういう意味なのか、調べてみたりするといいわけですね。
















































